奈良の大仏(東大寺の盧舎那仏)が大きいのは、華厳経で「宇宙そのもの」とされる仏を、仏像の基本寸法である丈六(じょうろく)の10倍で表したからだと、東大寺は説明しています。造らせた聖武天皇の側には、政変や疫病の続く国を仏法の力で鎮めるという目的がありました。開眼からちょうど500年後の1252年に造立が始まった鎌倉大仏と並べると、どんな仏を、誰が、何のために造ったかの違いが大きさにそのまま出ています。
| 奈良の大仏(東大寺) | 鎌倉大仏(高徳院) | |
|---|---|---|
| 正式名 | 銅造盧舎那仏坐像(盧舎那仏は「るしゃなぶつ」) | 銅造阿弥陀如来坐像 |
| 国宝の指定 | 1958年2月8日(重要文化財の指定は1897年12月28日) | 国宝(寺の説明による) |
| 世界遺産 | 古都奈良の文化財(1998年登録)の構成資産「東大寺」 | 登録なし |
| 登録基準 | (ii)(iii)(iv)(vi)。寺社群と都として評価され、大仏の名指しはなし | なし |
| 年代 | 743年に造顕の詔、745年着工、752年開眼。文化庁の時代区分は「奈良~江戸」 | 1252年に造立開始。寺は「ほぼ造立当初の像容」を保つと説明 |
| 大きさ | 座高14.98m(奈良市観光協会)。寺は約15mと説明 | 像高約11.3m、重量約121t |
| 仏の種類 | 盧舎那仏。華厳経で宇宙そのものとされる仏 | 阿弥陀如来。西方極楽浄土の教主 |
| 造った主体 | 聖武天皇の発願。大仏師国公麻呂、大鋳師真国らが指揮 | 僧浄光が勧進した浄財によるとも伝わる。原型作者は特定されていない |
| 置かれ方 | 大仏殿(金堂)の中 | 大仏殿が大風と地震で損壊し、露坐 |
| 大きさの理由 | 宇宙そのものの仏を、丈六を10倍した大きさで表した(寺の説明) | 寺の説明に大きさの理由はない。規模は奈良の大仏に及ばないと寺は書いている |
奈良の大仏が大きい理由(華厳経と丈六の10倍)
東大寺は公式サイトのよくある質問で、なぜ巨大な仏像を造ったのかに答えています。華厳経には、盧舎那仏は宇宙そのものだと説かれている。そして「十」は宇宙へ広げられる特別な数である。だから仏像の基本寸法である丈六を10倍したのだろう、というのが寺の説明です。
寺はこう続けています。寸法としては15mと限りがあっても、中身としては無限大の宇宙的な寸法だ、と。
10倍という数は、目に見えない宇宙を人の目に入る形で表すためのものだったわけです。仏が宇宙そのものなら、ふつうの仏像と同じ大きさで造るわけにはいかなかったのでしょう。
ひとつ気をつけたいのは、寺自身が「考えられます」と推し量る形で書いていることです。寺はこの説明に造立当時の記録を添えていません。教義から大きさを読み解いた寺の見方として受け取るのがよさそうです。
大仏を造った理由としてよく語られるのは、聖武天皇が国を鎮めるために造ったという話です。ただ、それは造った目的の答えで、なぜ15mなのかまでは分かりません。大きさそのものに理由をつけているのは、寺が挙げる華厳経の話のほうです。
この2つは分けて読んだほうが話が通ります。「何のために造ったか」は聖武天皇の政治、「なぜこの大きさか」は仏の教え。混ぜたまま読むと、大きさの理由がいつまでもぼやけます。
聖武天皇が大仏を造った目的(鎮護国家と743年の詔)
奈良市観光協会の解説によると、聖武天皇は741年(天平13年)、政変や疫病への対策として国分寺創建の詔を出しました。仏法の力で国を救おうと考えた、と観光協会は書いています。
その2年後、743年(天平15年)に出したのが盧舎那仏造顕の詔です。東大寺はこの詔の願いを、国民ひとりひとりが思いやりの心でつながることで国を鎮め、平和を導こうとしたものだと説明しています。
仏教の力で国を守るという考え方を、鎮護国家と呼びます。観光協会の言葉では、大仏は「鎮護国家仏教の拠点である東大寺にふさわしい本尊」でした。手本にしたのは中国洛陽の龍門奉先寺にある大毘盧舎那仏だそうです。
工事の流れは寺の説明で追えます。745年8月の着工から749年の本体完成までに4年。751年に大仏殿ができ、752年4月9日に開眼供養会が開かれました。詔から開眼まで、10年近くかかった計算です。観光協会によると、造立に協力した人はのべ260万人にのぼったそうです。
作った人を問われると、寺は願主が聖武天皇で、大仏師の国公麻呂や大鋳師の真国らが指揮したと答えています。
目的と大きさの説明は別物ですが、ぶつかり合ってはいません。国全体を鎮めたいという天皇の願いと、宇宙そのものとされる仏は、規模の上でよく釣り合っているように見えます。大きさの直接の理由は教義にあり、その教義の仏を本尊に選んだところに天皇の目的が出ている、と読むとすっきりします。
奈良の大仏の大きさと、今の姿が「奈良~江戸」である理由
奈良市観光協会は大仏の寸法を細かく載せていて、座高は14.98m、顔の長さは4.13m、顔の幅は3.20mです。東大寺はおおよそ15mと説明しています。
文化庁の国指定文化財等データベースでは、大仏は「奈良・江戸時代の作品」とだけ書かれ、時代も「奈良~江戸」です。752年に開眼した像が、そのままの姿で残っているわけではありません。
分かりやすいのが頭の螺髪です。東大寺は、よく知られた螺髪の数は奈良時代の頭部についての話で、今の頭部のことではないと断っています。同じよくある質問で寺が紹介している東京大学のレーザースキャン計測によると、今の大仏には483個が付いていて、はずれた分を含めると計492個と推定されるそうです。螺髪は1個が直径約22cm、高さ約21cm、重さ約1200gと、寺は説明しています。
観光協会によると、江戸時代の1692年(元禄5年)に大仏の開眼供養会が開かれました。1709年(宝永6年)には、大仏殿の落成を祝う落慶供養が行われています。
今見れる大仏には、奈良時代の部分と江戸時代の部分が混じっています。「なぜ大きいのか」は、寺が語る造立のときの考え方の話です。今の顔立ちが奈良時代のままかどうかとは、分けて考えたほうが混乱しません。
指定の履歴にも時代の重なりがあります。文化遺産オンラインでは、重要文化財の指定が1897年12月28日、国宝の指定が1958年2月8日です。1950年に文化財保護法ができる前の指定と、できた後の国宝指定が二段になっているわけです。この段差の理由は国宝と重要文化財の違いにまとめました。
鎌倉大仏との違い(大きさ・仏の種類・造った人)
どっちが大きいかは、奈良の大仏です。奈良は観光協会の載せる座高で14.98m、鎌倉は高徳院の載せる像高で約11.3m。測り方の呼び名が違うので同じ物差しの数字ではありませんが、高徳院自身も、規模では奈良東大寺の大仏に及ばないと書いています。
高徳院の説明では、鎌倉大仏は寺の本尊で、国宝の銅造阿弥陀如来坐像です。重量は約121t。造立が始まったのは1252年で、僧浄光が勧進(寄付を募ること)で集めた浄財が当てられたとも伝えられています。原型を作った人はまだ特定されていないそうです。
大仏殿は、1334年と1369年の大風、1498年の大地震で損壊しました。それ以来、鎌倉大仏は屋外に座る露坐の大仏です。
大きさより比べて面白いのは、誰のための仏かという点。
奈良の大仏は盧舎那仏で、国を鎮めたい天皇が詔を出して造らせた、宇宙そのものの仏です。鎌倉大仏は阿弥陀如来で、高徳院は西方極楽浄土の教主と説明しています。寺は、南無阿弥陀仏と称えれば阿弥陀仏の加護を受け、極楽浄土に迎え入れてもらえるという教えを紹介しています。
高徳院は鎌倉大仏の大きさの理由を書いていません。それでも、国全体を包む仏と、念仏を称える一人ひとりを迎える仏という役割の違いは、2体を比べるときの手がかりになります。
置かれ方も違い、奈良の大仏は大仏殿の中、鎌倉大仏は空の下で見れます。当初の姿の残り方も対照的です。高徳院の説明では、鎌倉大仏はほぼ造立当初の像容を保っているそう。奈良の大仏は「奈良~江戸」の像でした。
両方を見比べるなら、奈良では寺が教義で説明する大きさを、鎌倉ではほぼ造立当初の姿を保つ像そのものを見る、と目的を分けておくと、同じ「大仏」でも見るところが変わってきます。
世界遺産「古都奈良の文化財」での東大寺と大仏
東大寺は、1998年に世界遺産になった「古都奈良の文化財」の構成資産です。2014年に世界遺産委員会が採択した顕著な普遍的価値(その物件が世界遺産にふさわしい理由)の声明は、全体を8つの構成資産、78棟の建物、617.0haとしています。
世界遺産委員会はこの声明で、710年から784年まで奈良が都だった時代の日本の建築と美術を評価しています。まず、中国・朝鮮との交流で建築と美術が発展した証しである点。次に、都の時代に花開いた文化を、残る建物が伝えている点。宮城の配置と建物も、アジアの初期の都の優れた例とされました。そして、奈良の寺院と神社が仏教と神道の精神的な力を今に伝えている点です。
大仏そのものを名指しした箇所は、声明にはありません。
東大寺の大仏は「国宝の彫刻」として、東大寺は「世界遺産の構成資産」として、それぞれ別の物差しで評価されています。「東大寺はなぜ世界遺産なのか」に大仏の大きさで答えるのは筋違いで、評価されたのは寺社群と都の全体です。大仏が大きい理由を知りたいなら、寺が語る華厳経の話を読むのが近道です。
