原爆ドームはなぜ世界遺産?登録基準1つだけで選ばれた理由

原爆ドームが世界遺産になったのは、人類が初めて核兵器の惨禍を受けた出来事と、この建物が直接結びついているからです。決めたのは1996年12月に開かれた第20回世界遺産委員会です。文化遺産の登録基準のうち、「出来事や思想、信仰との直接の結びつき」を問う1つだけを根拠にした、例外的な登録でした。

世界遺産委員会に専門的な評価を出す諮問機関、イコモスの評価書は、この建物自体に美術的・建築的な意義はないとはっきり書いています。評価されたのは建物の出来ではなく、そこで起きたことのほう。だから保存の目的も「被爆直後の状態を保つこと」に置かれました。

よく使われる「負の遺産」という言い方は、世界遺産の制度が定めた区分ではありません。

物件(通称)国内の指定世界遺産の登録該当した登録基準対象の年代選ばれた理由の要点
原爆ドーム史跡(1995年6月27日)1996年12月(vi) の1つだけ(例外的)1915年竣工・1945年被爆核兵器の惨禍を伝える出来事との直接の結びつき
厳島神社(宮島)国宝・重要文化財の建造物、特別史跡・特別名勝1996年12月(i)(ii)(iv)(vi) の4つ12世紀の社殿形式(主要社殿は13世紀の再建)建築と自然景観が一体になった宗教施設の最高の例
富士山特別名勝・史跡2013年6月(iii)(vi) の2つ山への信仰の伝統と19世紀の版画富士山信仰の伝統と、西洋美術に与えた影響

登録基準の番号を覚える必要はありません。いくつ並んでいるかを見れば、その遺産が「もの」で選ばれたのか「こと」で選ばれたのかが分かります。原爆ドームは「こと」だけで選ばれた例です。

原爆ドームが世界遺産に選ばれた理由(登録基準は1つだけ)

評価書は、原爆ドームの意義を「それが表しているもの」に置いています。骨組みだけの残骸が、人間による破壊の行き着いた先を表し、同時に、そのあと半世紀以上続いた世界の平和がこれからも続くという希望を伝える。イコモスはそう述べて、例外的にこの基準だけで登録するよう勧告しました。

根拠になった基準の中身は、作業指針(世界遺産条約を実行するための手引き)の言葉で書くとこうなります。顕著な普遍的意義をもつ出来事、生きた伝統、思想、信仰、芸術作品や文学作品と、直接または実質的に関連していること。建物の古さや形の良さを問う基準ではありません。

作業指針は、この基準については他の基準と併せて用いることが望ましいと書き添えています。ふつうは単独で使わない基準で、委員会の決定にも「例外的に」という言葉が入りました。

推薦の側の事情も評価書に書かれています。日本が1995年9月28日に出した推薦書には、どの基準に当たるかの提案が入っていませんでした。日本側が理由として挙げたのは3点。核兵器が兵器として初めて使われた惨事の、変わらぬ証人であること。被爆直後の状況を姿のままで伝えられる現存唯一の建物であること。恒久平和と核兵器の全廃への希望を象徴する、人類共通の記念物になっているという点です。

どの基準に当たるかは、イコモスの勧告を経て委員会が決めています。

建築としての価値では選ばれていない

イコモスは、他の遺産との比較についても、世界に比べられる建物はないと書くだけで終わらせています。だから「名建築だから残った」という説明は当たりません。

ここが他の世界遺産と見方が逆になるところ。同じ年に登録された厳島神社なら、残っている社殿の美しさを見ます。原爆ドームで見るのは、残らなかったもののほうです。崩れ方そのものが登録の対象になっています。

「負の遺産」と呼ばれる理由(制度上の区分ではない)

世界遺産条約と作業指針が定めているのは、文化遺産と自然遺産という枠と、10項目の登録基準です。文化の物差しが6つ、自然の物差しが4つ。両方に当たるものを複合遺産と呼びます。「負の遺産」はこの中に出てきません。

1996年の委員会の記録でも、原爆ドームは文化遺産の基準によって登録された物件として扱われています。

戦争や災害で人類が受けた惨禍を伝える遺産を指して、報道や解説で「負の遺産」と呼ばれているとされています。ただし、条約と作業指針の側に、この言葉の定義はありません。

この言葉に出会ったときに確かめるのは、誰がそう呼んでいるかだけで足ります。件数を数え上げても意味がない。制度の側の区分は世界遺産の文化遺産・自然遺産・複合遺産の違いの記事にまとめました。

元は何の建物だったのか(物産陳列館から産業奨励館へ)

評価書によれば、始まりは1910年。広島県会が、県内の産業を盛り上げるための展示施設を建てると決めました。設計はチェコの建築家ヤン・レツル。元安川の東岸で1914年に工事が始まっています。広島市によると、完成したのは翌1915年4月、名前は「広島県物産陳列館」でした。

名前はそのあと2回変わりました。1921年に「広島県立商品陳列所」、1933年に「広島県産業奨励館」。1944年3月31日には館としての業務そのものが廃止され、建物は官公庁や統制組合の事務所になります。被爆した時点で、ここはもう展示施設ではありませんでした。

建物の姿は、文化庁の文化遺産オンラインが、一部に鉄骨を用いた煉瓦造の3階建てと説明しています。正面中央は5階建ての階段室で、その上に銅板張りの楕円形のドーム。建築面積1,023平方メートル、高さ25メートル。国指定文化財等データベースは煉瓦と鉄筋コンクリート造と記していて、構造の書き方は資料で少し違います。

1945年8月6日8時15分、爆弾は上空約600メートルで炸裂しました。ドームからの距離は、広島市が爆心地の北西約160メートル、文化遺産オンラインが西北約150メートルと記しています。天井から火を吹いて全焼し、屋根と床は落ちた。それでも中心部が立っていたのは、爆風がほぼ真上から働いたからです。

当時この建物にいた約30名の職員は全員が即死したと文化遺産オンラインは書いています。広島市の調べでは、その年の12月末までに約14万人が亡くなりました。

正式名称は資料によって別のものが出てきます。ユネスコの一覧表の英語名は Hiroshima Peace Memorial (Genbaku Dome)、文化庁の日本語の一覧では「原爆ドーム」。史跡としての指定名称は「原爆ドーム(旧広島県産業奨励館)」です。世界遺産の登録名と史跡の指定名称は別だと覚えておけば足ります。

国内の指定は史跡(1995年の指定が推薦の前提)

国内で受けている指定は史跡です。1995年6月27日の指定で、所在地は広島市中区大手町。文化遺産オンラインは時代を第二次世界大戦末期としています。

国宝と重要文化財は、文化財保護法が建造物や美術工芸品の出来を評価して指定する枠です。原爆ドームが入ったのは、遺跡としての価値を評価する史跡の枠でした。

評価書は、この史跡指定を保護の根拠に挙げました。史跡は所有者か地元の自治体が適切に管理しなければならず、今の状態を変える工事には国の許可が要ります。

作業指針は、世界遺産として認めるだけの値打ち(顕著な普遍的価値)があると判断するには、十分な保護と管理の仕組みが必要だと定めています。国内の史跡指定が、その条件を満たしていました。

指定の種別を見れば、その物件が何の価値で評価されたかが分かります。国宝と重要文化財の線引きは国宝と重要文化財の違いの記事にまとめました。

世界遺産の範囲は0.4ヘクタール(平和記念公園は緩衝地帯)

推薦時の面積は、資産が0.4ヘクタール、緩衝地帯が42.7ヘクタール、合わせて43.1ヘクタール。いずれも評価書の数字です。

「平和記念公園が世界遺産」という言い方をよく見かけますが、登録されているのは0.4ヘクタールのドームだけ。公園はその周りの緩衝地帯です。

緩衝地帯には園地の施設以外を建てられず、その施設も公園全体の面積の12%までと決まっています。広島市は、公園の周辺の建築を規制する指導指針も作っています。ドームの所有者も広島市です。

史跡指定から世界遺産登録までの流れ

広島市の説明では、動きは1992年9月に始まります。世界遺産にという声が上がり、1993年には全国的な署名運動になった。国が動いたのはそのあとで、1995年6月に史跡指定、9月28日に推薦です。

この順番には理由がありました。広島市は、国が当初、この建物は文化財保護法の保護を受けていないので推薦の要件を備えていないという見解を示していた、と説明しています。

登録の日付は2つあります。委員会が決めたのが1996年12月5日、一覧表に記載されたのが12月7日。年だけ知りたいなら1996年12月で足ります。

広島市は登録の意義を、人類史上初めて使用された核兵器の惨禍を如実に伝え、時代を超えて核兵器の廃絶と世界の恒久平和の大切さを訴え続ける人類共通の平和記念碑だと説明しています。

なぜ被爆した姿で残されているのか(保存の目的と5回の工事)

評価書によれば、ドームに対するすべての工事の目的は、原爆が炸裂した直後の状態のまま保つことです。手を入れるのは、崩れないようにするためです。

広島市は3年ごとに健全度調査をして、その結果をもとに対策を検討し、必要なら補修工事をします。何を見るかは1989年から1990年の工事のあとに決まりました。セメントの剥落、煉瓦の目地の劣化、補強板の腐食、合成樹脂の劣化、沈下や傾きの程度。評価書にそう書かれています。

工法も決まっていて、崩落の危険が大きいところにはエポキシ樹脂を接着剤として使い、鉄骨で補強する。傷んだ煉瓦を積み直すときは、元の煉瓦を使う。新しい材料で作り直さないのは、被爆直後の状態を保つためです。

工事はこれまでに5回です。

回期間費用
第1回1967年4月10日〜8月5日5,150万円
第2回1989年10月31日〜1990年3月31日2億378万円
第3回2002年10月8日〜2003年3月10日7,237万円
第4回2015年11月16日〜2016年7月29日3,296万円
第5回2020年6月29日〜2021年4月30日7,933万円

第4回では地震対策の補強鋼材を入れ、第5回では鋼材の塗装と煉瓦の目地を補修しています。2026年9月時点で広島市が公表しているのは第5回まで。

3年ごとの調査があって、必要になったところだけ手を入れる。この積み重ねで、被爆した姿が今も残っています。

残すか取り壊すかで意見が割れた時期もありました。広島市観光協会が1948年8月に集めたアンケートでは、604通の回答のうち保存を望む声が436通、取り壊しを望む声が168通。1966年7月11日に広島市議会が永久保存を決議し、同年11月1日から募金が始まって6,619万7,816円が集まりました。翌年の第1回工事は、全額をこの募金でまかなっています。

焼けた建物をどう扱うかは物件ごとに分かれます。金閣は1950年に焼けて再建され、国宝の指定はそのまま解けました。金閣寺が国宝ではない理由の記事と読み比べると、残すか建て直すかの判断がどれだけ違うかが分かります。

厳島神社・富士山との違い(同じ基準が使われた例)

同じ1996年12月の会期で、もう1つ日本の物件が世界遺産になっています。厳島神社(宮島)です。こちらは4つの基準で登録されました。委員会は、伝統建築と背後の自然が作る景観をもつ宗教施設として、他に比べようのない最高の例だと述べています。国内では建造物17棟と3基が国宝か重要文化財に指定されています。

富士山は2013年6月に登録され、基準は2つ。1つは富士山信仰という文化的伝統の証しであること、もう1つが原爆ドームと同じ「出来事や思想との結びつき」を問う基準です。富士山では19世紀の版画が西洋美術に与えた影響がこれに当たります。

この基準そのものは珍しくありません。珍しいのは、他の基準を伴わずにこれだけで通ったこと。ふつうは他の基準の補強に使う基準で、ここで比べた3件でも単独で通ったのは原爆ドームだけです。富士山が文化遺産になった経緯は富士山はなぜ文化遺産なのかの記事に書きました。

参考