軍艦島はなぜ世界遺産?呼び名の由来と端島で評価された遺構

軍艦島は、長崎市の端島(はしま)に付いた通称です。石炭を掘るために何度も埋め立てられた島が高い護岸で囲まれ、洋上に浮かぶその姿が軍艦のように見えたことからそう呼ばれるようになった、と長崎市は説明しています。

世界遺産になったのは2015年7月。「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」という資産群の構成資産の1つ、「端島炭坑」としての登録でした。

ただし、評価の中心にあるのは明治期の坑口跡と護岸遺構です。写真でおなじみの高層アパートは大正時代以降に建てられたもので、顕著な普遍的価値(世界遺産として認める根拠になる価値)を反映する要素ではない、と文化庁は書いています。名前の由来になった部分と、世界遺産の理由になった部分は、同じ島の中でもずれています。

炭坑跡国の文化財世界遺産の構成資産登録基準主な年代評価された中身
端島炭坑(軍艦島)史跡「高島炭鉱跡」に含む(2014年10月6日指定)入っている(ii)(iv)1890年に三菱社が買収、1974年に閉山坑口などの生産施設跡と、数次の拡張を示す護岸遺構
高島炭坑(北渓井坑跡)同じ史跡に含む入っている(ii)(iv)1868年開坑、1876年まで稼働蒸気機関の捲揚機を備えた日本最初の西洋式竪坑
中ノ島炭坑跡同じ史跡に含む入っていないなし1883年出炭、1893年廃坑高島炭鉱初期の主要炭坑(史跡としての指定のみ)

軍艦島の名前の由来|端島(はしま)が軍艦に見えた理由

端島と書いて「はしま」。高島の南西沖およそ2.5kmの海に浮かぶ島だと、長崎市は説明しています。

この島が今の形になったのは、石炭を掘るためでした。採炭が活発になるほど施設を置く場所が要る。そこで端島は段階的に埋め立てられ、拡張されていったと長崎市の文化財課は記しています。長崎県の文化財データベースによれば、できあがった島は南北約480m、東西約160m。それを囲む護岸の周囲は約1,200mだそうです。

狭い島に炭鉱で働く人とその家族の住宅を確保するため、大正期以降は鉄筋コンクリート造の高層アパートが密集して建てられました。

高い護岸に囲まれ、その内側に四角い建物が積み上がる。洋上に浮かぶこの姿から軍艦島と呼ばれるようになった、というのが長崎市の説明です。

由来には、もう少し具体的な言い方もあります。長崎県観光連盟のながさき旅ネットは、外観が軍艦「土佐」に似ていたことから軍艦島と呼ばれるようになった、と書いています。長崎市と長崎県の文化財の説明は「軍艦のような姿」までで、艦名までは挙げていません。

艦名の話だけを覚えると、なぜその形になったのかが抜け落ちます。埋め立てで土地を作って護岸で守り、その内側に住宅を高く積む。この2つが重なって軍艦に似た輪郭ができたと見るほうが、世界遺産の話ともつながります。

見た目から付いた通称という点では、姫路城が白鷺城と呼ばれるのも同じ筋です。姫路城の別名・白鷺城の由来は別の記事にまとめました。

端島がなぜ世界遺産なのか|登録基準が評価したもの

2015年7月の第39回世界遺産委員会が、「明治日本の産業革命遺産」の世界遺産一覧表への記載を決めました。決議が根拠に挙げた登録基準は2つで、端島炭坑はこの資産群を構成する1件として登録されています。

決議には資産群の規模も書かれています。23の構成資産が11か所にまとまり、それが8つの地域に分かれる。これらは1850年代から1910年までの50年あまりで成し遂げられた急速な工業化の3つの段階を映したものだ、とも決議は述べています。

2つの基準が何を評価したのかも、決議に書かれています。

1つ目は技術の取り入れ方です。19世紀半ば以降の日本が西ヨーロッパとアメリカに技術の移転を求め、その技術を国内の必要と社会の慣習に合うよう少しずつ作り替えていき、20世紀の初めには世界有数の工業国になった。決議はその過程を評価したと記しています。

2つ目は、非西洋の国として最初に工業化に成功したという、世界の歴史の中で例のない達成の証拠であること。どちらも資産群の全体について述べられた評価です。

端島がそこで担う役割は、海の底から石炭を掘ったことでした。ICOMOSの評価書は、端島炭坑を1895年に日本で最初の本格的な海底採炭が行われた場所と記しています。文化遺産オンラインによれば、ここで採れた高品位の石炭は国内外の需要を賄い、明治末には八幡製鐵所へ原料炭として送られました。

読み方のコツは、端島を単独で選ばれた物件として見ないことです。評価されたのは資産群で、端島はその中で海底炭鉱という役回りを担当しています。そう押さえておくと、実際に評価された部分がどこかという話も分かりやすくなります。

同じ文化遺産でも、富士山は信仰と芸術という別の物差しで評価されました。その経緯は富士山はなぜ文化遺産なのかで扱っています。

世界遺産が評価したのは護岸と坑口|高層アパートの扱い

文化庁の文化遺産オンラインは、端島炭坑について踏み込んだ書き方をしています。産業活動が止まって住民が引き揚げたあと、今残っているのは坑口などの生産施設跡と、数次にわたって拡張された海岸線を示す護岸遺構である、と。

そのうえで、崩壊寸前のコンクリート高層住宅群は大正時代以降に建設されたもので顕著な普遍的価値を反映する要素ではない、と明記しています。ただし文化財としての価値は持つ、とも添えてありました。

軍艦島という名前を作った建物と、世界遺産の理由になった遺構は別ものだということです。

「廃墟だから世界遺産になった」という受け取り方は、ここではっきり外れます。認められたのは、明治期のこの島で石炭を掘った仕組みの跡でした。

では何が残っているのか。長崎市の文化財課は、埋め立ての各段階を示す護岸遺構、第二竪坑跡・第三竪坑跡・第四竪坑跡などの生産施設跡、そして大正・昭和期の鉄筋コンクリート造建物群を挙げています。護岸は、島が何度も外へ広がっていった段階ごとの姿をとどめているわけです。

軍艦島を訪ねるなら、アパートの壁よりも先に護岸と竪坑跡に目を向けるほうが、登録の理由に届きます。見れるものは同じでも、どこを見るかで意味が変わる。

アパート群は世界遺産の理由からは外れ、それでも文化財としての価値は残る。1つの島に2つの物差しが重なっていると考えると、整理しやすくなるはずです。

国の史跡「高島炭鉱跡」と世界遺産の線引き

軍艦島は国宝ではありません。国の文化財としての立場は史跡です。2014年10月6日、「高島炭鉱跡 高島北渓井坑跡 中ノ島炭坑跡 端島炭坑跡」という名称で国の史跡に指定されました。指定面積は99,482.62平方メートルです。

根拠になった指定基準は、交通・通信施設、治山・治水施設、生産施設その他経済・生産活動に関する遺跡という区分。建物を1棟ずつ国宝や重要文化財に指定していくやり方とは仕組みが違い、産業の跡地をまとまりとして押さえています。国宝と重要文化財の違いは別の記事で整理しました。

史跡と世界遺産では、そもそも線の引き方がずれています。

史跡は高島・中ノ島・端島という3つの島の炭坑跡を一括で指定しています。これに対し、世界遺産の構成資産になったのは高島炭坑と端島炭坑の2つだけ。ICOMOSの評価書が並べる長崎地域の8つの構成資産に、中ノ島炭坑跡の名前はありません。

中ノ島炭坑は1883年に出炭を始めた高島炭鉱初期の主要炭坑で、出水が激しく1893年に廃坑になったと文化庁の国指定文化財等データベースは記しています。史跡には初期の炭坑の跡として含まれ、世界遺産の構成資産には入っていません。同じ島々に2つの制度がかかっていて、切り方が違うわけです。

史跡がどんな枠組みなのかは、史跡・名勝・天然記念物の違いにまとめてあります。

端島炭坑の年表と数字|買収から閉山まで

史跡に含まれる3つの炭坑跡は、活動した時期がきれいにずれています。文化庁の国指定文化財等データベースによれば、高島の北渓井坑は1868年の開坑で、蒸気機関を動力とする捲揚機を備えた日本最初の西洋式竪坑で、1876年まで稼働しました。続く中ノ島が1883年から1893年までです。

端島で採炭が本格化するのはそのあと。1886年に第1竪坑、1895年に第2竪坑、その翌年には第3竪坑が開鑿されました。三菱社が端島炭坑を買収したのが1890年。設備の改良が進んで高島炭鉱の優良坑に成長したと、文化庁のデータベースは記しています。

人の密度が数字に出るのは戦後です。長崎市によると、面積6.3ヘクタールほどの島に5,000人を超える人が生活し、当時の端島の人口密度は世界一であったと言われているそうです。

1966年には高島炭坑が年間153万9500トンの最高出炭量を記録した、と長崎市は記しています。同じころ高島と端島を合わせて約21,965人が住み、高層アパートが建ち並んでいたそうです。

1974年1月に端島炭坑は閉山し、同年4月に端島は無人島となります。一般の人が上陸できるようになったのは2009年から。埋め立てで土地を作り、その土地に人を積み上げ、石炭が終わると一気に引いていった。年表は一本の流れで読めます。

保存の見通しと今の端島(2026年9月時点)

登録を決めた決議には、端島炭坑は劣化した状態にあり保存には相当な課題がある、という一文が入っています。世界遺産になった時点で、島が崩れつつあることは分かっていました。

長崎市の世界遺産室は、端島(軍艦島)整備基金への寄附を呼びかけています。市が示す数字では、2018年度から30年間の整備事業費が147.6億円、基金の目標額が57.7億円。これに対して基金の積立額は、2023年度(令和5年度)末時点で15.6億円でした。目標額の3割にも届いていません。

軍艦島の名前を作った高層アパートは、文化庁が崩壊寸前と書くほど傷んでいます。世界遺産の理由になった護岸と坑口の跡は、その足元にある。この二重の関係を頭に入れてから島に向かうと、同じ景色でも何に目を留めればよいかが変わってきます。

参考