広隆寺の弥勒菩薩は「こうりゅうじのみろくぼさつ」と読みます。文化庁のデータベースでの名前は「木造弥勒菩薩半跏像(もくぞうみろくぼさつはんかぞう)」で、よく聞く「半跏思惟像」は姿を表す呼び名です。広隆寺にはこの名前の国宝が2体あります。宝冠弥勒(ほうかんみろく)と、通称「泣き弥勒」の宝髻弥勒(ほうけいみろく)です。
コトバンクに載る事典では、2体とも京都・太秦の広隆寺で寺宝を収める霊宝殿にあるとされ、日の決まった開扉を待つ秘仏としては扱われていません。
| 通称 | 読み方 | 文化庁の指定名称 | 所蔵・展示場所 | 作者・時代 | 指定 |
|---|---|---|---|---|---|
| 宝冠弥勒 | ほうかんみろく | 木造弥勒菩薩半跏像(もくぞうみろくぼさつはんかぞう) | 広隆寺(京都市右京区太秦)の霊宝殿 | 作者は伝わっていない・飛鳥時代 | 国宝(事典では「国宝指定第1号」) |
| 泣き弥勒(宝髻弥勒) | なきみろく(ほうけいみろく) | 木造弥勒菩薩半跏像(同じ名前で別に指定) | 広隆寺の霊宝殿 | 作者は伝わっていない・飛鳥時代 | 国宝 |
広隆寺の弥勒菩薩の読み方
広隆寺は京都市右京区の太秦(うずまさ)にあり、事典では秦寺・太秦寺という別名も紹介されています。
観光庁の多言語解説によると、弥勒は釈迦の後継者で、釈迦の入滅から56億7千万年後にこの世に現れて次の仏陀になるとされる存在です。まだ悟りを開く前の姿なので、如来ではなく菩薩として表されます。如来と菩薩の見分け方は如来と菩薩の違いの記事にまとめました。
迷いやすいのが「半跏思惟像」の読み方です。デジタル大辞泉は「はんかしゆいぞう」を見出しにして、「はんかしいぞう」とも読むと添えています。世界大百科事典は「はんかしいぞう」で立てているので、どちらで呼んでも間違いではありません。
半跏思惟は姿勢の名前です。台座に腰かけて左足を垂らし、右足を左ひざの上にのせ、右手をほおに当てて考えこむ形を指します。日本ではこの形が弥勒菩薩の像に多い、と大辞泉は説明しています。
文化庁の指定名称は「木造弥勒菩薩半跏像」で、「思惟」の2字が入りません。
素材の「木造」、仏の名前、姿勢の「半跏」を並べた名前です。資料や図録で調べるなら、この指定名称で引くと行き着きやすくなります。「半跏思惟像」で探すと、中宮寺や韓国の像まで一緒に出てくるので、広隆寺の2体だけを追いたいときは遠回りです。
通称の「宝冠」と「宝髻」は、どちらも頭の飾りを指す字です。宝冠は冠のこと、宝髻(ほうけい)の「髻」は頭の上で束ねた髪のこと。泣き弥勒のほうは、字ではなく表情から付いた呼び名です。
宝冠弥勒と泣き弥勒の違い
2体は同じ広隆寺の、同じ名前の国宝です。違いは日本大百科全書の記述でだいたい分かります。
| 比べる点 | 宝冠弥勒 | 泣き弥勒(宝髻弥勒) |
|---|---|---|
| 材 | 赤松の一木造 | 楠の一木造 |
| 表情 | 微笑を浮かべて考えにふける | 泣いているように見える |
日本大百科全書によれば、宝冠弥勒は「創建当初の本尊といわれる」像で、美しい微笑をたたえて思索にふける半跏思惟像として名高い存在です。旺文社日本史事典にも、広隆寺の国宝の半跏思惟像はアカマツ製とあります。
事典によると、広隆寺は603年に渡来人の秦河勝(はたのかわかつ)が聖徳太子から仏像をもらい受け、それを安置するために建てたと伝わります。宝冠弥勒を創建当初の本尊とする言い伝えは、この始まりの話と重なる内容です。
泣き弥勒は、楠を一本の材から彫り出した像です。泣いているような表情からこの名で呼ばれ、日本大百科全書は「異国情緒豊かな像」と書いています。
2体を見比べるなら、事典が書き分けている表情に目を向けるのが近道です。微笑と、泣いているような顔。並べて見ると、なぜ「泣き」と呼ばれたのかが納得しやすいはずです。
弥勒菩薩は霊宝殿で見れるのか
2体がいるのは、本堂とは別の霊宝殿です。日本大百科全書によると、霊宝殿は寺宝を保管するために1922年に建てられ、仏画・仏像・工芸・古文書が収められています。世界大百科事典も、宝物殿にある寺宝として2体の木造弥勒菩薩半跏像を挙げています。
事典の書き方を見るかぎり、2体は公開日が決まっている秘仏とは扱いが違い、霊宝殿で公開される寺宝です。
広隆寺で「開扉」の日が決まっているのは別の像で、日本大百科全書によると、上宮王院太子殿の本尊の聖徳太子像が毎年11月22日に開扉されます。境内の西にある桂宮院本堂も国宝で、事典では鎌倉時代の八角円堂とされています。弥勒像を見るのとは別の建物です。
弥勒が目当てなら、まず霊宝殿の拝観を中心に考え、太子殿の開扉日や桂宮院は合わせられたら足す、という順で組むのがよさそうです。霊宝殿の公開の状況・拝観料・拝観時間は変わることがあるので、出かける前に寺へ問い合わせて確かめてください。
京都の世界遺産を一日で回る順番は京都の世界遺産を一日で回る記事にまとめました。広隆寺はそこに載せた行程とは別の寺なので、時間に余裕がある日に足す場所と考えてください。
国宝指定第1号と呼ばれる理由
宝冠弥勒を紹介する文には、たいてい「国宝指定第1号」の一言が付いてきます。デジタル大辞泉プラスも、創建時の本尊と伝わる宝冠弥勒を国宝指定第1号としています。
2026年10月時点で、文化庁の国指定文化財等データベースには、広隆寺の「木造弥勒菩薩半跏像」は2件。1件は指定番号が1番で、国宝の指定日は1951年6月9日。もう1件は指定番号が50番で、1952年11月2日に国宝になりました。
データベースには、どちらが宝冠弥勒かは書かれていません。事典が宝冠弥勒を第1号と呼んでいるので、1番が宝冠弥勒、50番が泣き弥勒と読むのが自然です。
1951年6月9日に国宝になった像は、ほかにもあります。同じ日付で、神護寺の木造薬師如来立像が2番、妙法院の木造千手観音坐像が3番、中宮寺の木造菩薩半跏像が23番として国宝になりました。
「第1号」は、その日に国宝になった像の指定番号の先頭に、宝冠弥勒が置かれたという意味で読むのがよさそうです。
2体とも、重要文化財としての日付は1897年12月28日です。今の文化財保護法は1950年(昭和25年)の法律なので、それよりずっと前の、古い制度での指定が引き継がれていることになります。旧制度の国宝と今の国宝・重要文化財の関係は、国宝と重要文化財の違いの記事で表にしています。
中宮寺・韓国の半跏思惟像との関係
「半跏思惟像」で調べると、広隆寺と並んで出てくるのが奈良の中宮寺の像です。日本大百科全書は、京都・広隆寺の2体と奈良・中宮寺の本尊を、国宝の半跏思惟像の例として並べています。
中宮寺の像の指定名称は「木造菩薩半跏像〈(伝如意輪観音)/(本堂安置)〉」です。広隆寺の像は名前が「弥勒菩薩」と決まっているのに対し、中宮寺の像は「菩薩」とだけあり、如意輪観音には「伝」が付いています。
国宝の指定日は中宮寺も1951年6月9日、重要文化財の日付も1897年12月28日で、宝冠弥勒とそろっています。飛鳥時代という時代も同じ。
中宮寺の像と並べて調べるなら、広隆寺は霊宝殿、中宮寺は本堂という置かれ方の違いと、指定名称の「伝」の有無が手がかりになります。
韓国の像との関係も、半跏思惟像を調べるとよく出てくる話題です。世界大百科事典は、広隆寺の像が韓国国立中央博物館所蔵の銅造半跏像と似ていると指摘されている、と書いています。
日本大百科全書の説明では、日本の半跏思惟像には、朝鮮の三国時代、とくに新羅の仏像の影響を受けて造られた例が多いそうです。旺文社日本史事典には朝鮮伝来説もあると書かれていて、どこで造られたかは事典の間でも断定されていません。
中宮寺の像を見に奈良まで足を延ばすなら、同じ奈良の国宝の仏像として、興福寺の阿修羅像の大きさと見れる場所も阿修羅像の高さの記事にまとめました。
