銀閣寺(慈照寺)の銀閣(観音殿)が銀色じゃないのは、銀箔が貼られた痕跡が見つかっていないからです。
2007年11月から2010年12月の修理に合わせて銀箔の痕跡を探した調査では銀は見つからず、上層の内外壁は黒漆塗りだったことが分かりました。「銀閣」という呼び名は、寺の説明では江戸時代に金閣寺に対して付いたもので、建てた当時の名は観音殿です。
それでも銀閣と東求堂は国宝で、銀閣寺は世界遺産「古都京都の文化財」の構成資産です。根拠は色にありません。
足利義政(室町幕府8代将軍)の山荘・東山殿の建物が2棟そのまま残っていること、その国宝の建造物と特別名勝の庭園が両方そろっていること。この2つで説明がつきます。
| 銀閣寺(慈照寺) | 金閣寺(鹿苑寺) | |
|---|---|---|
| 外装 | 銀箔の痕跡なし。上層の内外壁は黒漆塗り、軒まわりに彩色文様 | 2層・3層の全面に金箔 |
| 国宝の建造物 | 銀閣・東求堂の2件(1951年6月9日) | なし(焼失前の金閣は国宝。焼失で指定解除) |
| 現存する建物が建った年 | 東求堂1485年(資料により1486年)、銀閣1489年上棟 | 金閣は1955年に再建 |
| 庭園の指定 | 慈照寺庭園: 特別史跡・特別名勝(1952年3月29日) | 鹿苑寺庭園: 特別史跡・特別名勝(1956年7月19日) |
| 世界遺産 | 古都京都の文化財(1994年12月、登録基準 (ii)(iv)) | 同じ |
| 構成資産に選ばれた根拠 | 国宝の建造物と特別名勝の庭園 | 特別名勝の庭園 |
| 通称の由来 | 江戸時代に金閣寺に対して付いた。1658年の名所記が初出とされる | 舎利殿「金閣」が有名なため |
銀閣寺の列は「外装」だけが名前と食い違い、ほかはすべて埋まっています。金閣寺は逆で、外装だけが名前どおりで、国宝の建造物は「なし」。「銀じゃない」ことと「国宝で世界遺産」であることは別の話だと、この表を見るだけで分かります。
銀閣寺が銀じゃない理由(修理で分かったこと)
京都府教育委員会の建造物担当者が京都新聞に書いた解説によると、銀閣の屋根はこけら葺(薄く割った木の板を重ねて葺く屋根)です。そのこけら板が耐用年数に達したため、屋根の葺き替えを主とする修理工事を2007年11月から2010年12月に実施したそうです。
このとき、銀箔が実際に貼られていたかどうかを確かめる調査も一緒に行っています。
結果は、目視による観察と科学分析による調査で「銀箔の痕跡は発見できませんでした」。
代わりに分かったのが、上層の内外壁に黒漆が塗られ、軒まわりの部材には色鮮やかな彩色文様があったことです。解説によれば、上層の柱の上部にはその黒漆が残っていました。
銀箔が剥がれ落ちて今の姿になった、という説は、痕跡が見つからなかった以上、言いにくくなりました。上層に塗装の痕跡があることは以前から知られていたそうで、その正体が黒漆だったわけです。
修理調査から言えるのは、銀が貼られた痕跡は無い、というところまでです。それ以上の理由を探すと史料の無い推測に入っていくので、次に気になるのは、銀が無いのになぜ銀閣と呼ぶのか、という名前の側の話になります。
「銀閣」と呼ばれるようになった時期(江戸時代の名所記が初出)
寺の公式サイトは「銀閣寺の名の由来は江戸時代、金閣寺に対し、銀閣寺と称せられることとなったといわれています」と説明しています。
義政が建てたときの名は観音殿で、寺の境内案内によれば義政は一層を心空殿、二層を潮音閣と命名しました。「銀閣」は本人の命名ではありません。金閣寺のほうも同じで、金閣寺の公式サイトは舎利殿の金閣が有名なことから金閣寺と呼ばれるようになった、と説明しています。
初出の年は、京都新聞の解説がもう少し具体的です。「銀閣」の呼び名を初めて確認できるのは1658年(万治元年)の名所案内『洛陽名所集』で、「慈照寺は銀箔で彩られた閣があるので銀閣寺とも呼ぶ」と解釈できる記述があるそうです。これ以降のほとんどの書物が「銀閣寺」と称していることから、江戸時代の初めごろから通称になったとみられています。
順序を押さえると、話が単純になります。義政が祖父の足利義満の舎利殿(金閣)にならって観音殿を建て、江戸時代の人がその対として「銀閣」と呼んだ。寺の説明でも、観音殿は「祖父義満の残した舎利殿(金閣)にならって建てたもの」で、義政は1487年(文明19年)に舎利殿を見直すため鹿苑寺を訪れています。
金閣と対になる楼閣だから銀閣、というだけで名前の説明は足ります。「銀を貼る予定だった」という前提を置く必要はありません。
財政難説・未完成説の出どころ(根拠の年代で仕分ける)
銀閣が銀じゃない理由として、財政難で貼れなかった、義政が亡くなって未完成のまま、光の加減で銀に見えた、剥がれ落ちた、最初から計画が無かった、といった説がよく並べられます。並べるだけでは決められないので、根拠の年代で仕分けてみます。
| 説 | 根拠になっている記述 | 年代 |
|---|---|---|
| 剥がれ落ちた | なし。2007〜2010年の調査で痕跡は見つからず | (該当なし) |
| 義政の死で貼る前に終わった | 『山州名跡志』(1711年)の記述 | 通称が付いた1658年より後 |
| 財政難で貼れなかった | 同時代の史料は挙げられていない。京都新聞の解説も、銀箔を貼る計画の有無自体を明らかでないとする | 不明 |
| 月光や砂の反射で銀に見えた | 寺が「俗説」と説明。銀沙灘・向月台は近世以後の発想 | 江戸時代以後 |
| 最初から銀の計画は無かった | 黒漆と彩色が当初の仕上げ。計画の有無は史料で決められない | 修理調査の結果と整合 |
未完成説の出どころは、京都新聞の解説によれば1711年(正徳元年)の『山州名跡志』です。「箔を貼る前に義政は亡くなった。箔はないといっても、その趣から銀閣と呼ぶのであって、実際に銀箔があると思うのは誤りである」という旨が記されているそうです。
注意したいのは年代で、「銀閣」の名が確認できる1658年より50年ほど後の本です。名前が先にあり、銀が無い理由を後から説明した文章と読めます。
光の説を退けているのは寺自身です。境内案内は、銀沙灘は月の光を反射させるため、向月台はその上に坐って月を待つため、という話を「俗説」と呼んだ上で、こう続けています。「これら二つの砂盛りも室町時代まではとうてい溯り得ず、近世以後の発想ではないかと思われます」。
文化庁の構成資産解説も、銀沙灘と向月台は江戸時代に付加され、明治20年代に今の高さに定まったという説明です。「銀」のイメージを支える砂盛りも、建物の名と同じく後付けでした。
財政難については、京都新聞の解説が「銀箔を貼る計画があったかどうかは明らかではない」と述べるにとどまります。貼る計画の有無が分からない以上、貼れなかった理由を財政に求める説は、同時代の裏づけを欠いたままです。
決められるのは「貼った痕跡が無い」「名前は後から付いた」の2点までで、「なぜ貼らなかったか」に踏み込む説はどれも史料が足りない、というのがこの記事の見方です。
銀閣と東求堂が国宝である理由(文化庁の指定理由)
国指定文化財等データベースによると、銀閣は1489年(延徳元年)に上棟した二重の楼閣で、宝形造・こけら葺。東面と西面が8.2m、北面7.0m、南面5.9mです。
解説には、一階を書院造(床の間・違棚・付書院を備えた住宅の様式で、今の和室のもと)の要素の濃い住宅風、二階を禅宗様を基調とした仏殿風にしつらえ、「金閣とならぶ楼閣建築の双璧」とあります。1900年4月7日に指定され、文化財保護法のもとで1951年6月9日に国宝になりました。
もう1棟の東求堂は、桁行6.9m・梁間6.9m、一重の入母屋造・檜皮葺で、西芳寺の西来堂に模して建てられた持仏堂だそうです。建てられた年は、文化庁の資料は1485年(文明17年)、寺の年表は1486年完成としていて、資料によって1年の揺れがあります。
内部の四畳半「同仁斎」には付書院と違棚があり、構成資産解説はこれを現存する最古のもので書院造の源流と評価しています。1903年4月15日に指定、1951年6月9日に国宝。1965年(昭和40年)の修理で建立当初の姿に復原されたそうです。
指定理由のどこにも「銀」は出てきません。
データベースの解説が繰り返しているのは、義政の東山殿にあった建物のうち観音殿と東求堂以外は失われ、この2棟が「現存する当時の遺構」だという点です。1550年の戦いで堂宇は銀閣と東求堂を残して焼失した、と寺も説明しています。国宝の理由は、室町時代の楼閣と書院造の最古の例が原物のまま残っていること。銀を貼っていたかどうかは、最初から評価の対象外です。
銀閣寺が世界遺産である理由(登録基準と構成資産の条件)
古都京都の文化財は、京都市の資料によると1994年12月にタイで開かれた第18回世界遺産委員会で登録され、17の構成資産からなります。銀閣寺(慈照寺)はその一つです。
世界遺産には10の登録基準があり、どれかに当てはまることが登録の条件です。古都京都の文化財が当てはまったのは2つで、8世紀から17世紀にかけて京都が建築と庭園の意匠が発展する中心だったこと、そして京都に残る建築と庭園が近代以前の日本の物質文化の最高の表現であること。京都市の包括的保存管理計画にある和文を要約するとこうなります。どちらも建築と庭園を対で評価している、というところが銀閣寺に関わってきます。
17資産の選び方として京都市が英語ページに挙げている条件は3つ。国内で最高の格付けにあたる国宝の建造物と特別名勝の庭園を持つこと、史跡として良好に保存されていること、不動産であることです。
銀閣寺は国宝の建造物が2棟あり、庭園も1952年に特別史跡・特別名勝に指定されているので、建物と庭の両方で当てはまります。文化庁の庭園の解説も「銀閣及東求堂の当代建築もよく保存せられ、東山時代を代表する庭園」と、建物と庭をひとまとめに評価しています。
京都市の管理計画が挙げる慈照寺の価値は、山を背景に池と銀閣が一体になった配置、特別名勝の庭園、国宝の銀閣と東求堂、の3つ。登録時のICOMOS評価書も、1489年に建てられた二層の楼閣の銀閣と1485年の東求堂は国宝だと書き、庭園については特別名勝で1615年の姿を示すものだと記述しています。
世界遺産の側から見ても、評価は「池と楼閣の一体配置」と「原物の建物」で、外装の色は出てきません。評価書が金閣について「外装は金箔で飾られる」と書いているのと比べると、銀閣については色に触れていないこと自体が答えになっています。
金閣寺との対照(同じ「双璧」で片方だけ国宝の理由)
金閣は、文化庁の構成資産解説によれば2層・3層の全面に金箔を押した建物で、国宝でしたが1950年の火災で焼失し「焼失により指定解除」となりました。今の金閣は1955年の再建です。ICOMOS評価書も「国宝に指定されていたが火災で失われた」と記しています。
金閣寺が焼失で国宝を失いながら世界遺産に入っている経緯は、金閣寺はなぜ国宝じゃないかの記事にまとめました。
銀閣は銀箔が無いまま1950年を越え、翌1951年に国宝になっています。データベースが「双璧」と呼ぶ2つの楼閣のうち、1950年を無傷で越えたのは銀閣だけでした。国宝の建造物と特別名勝の庭園という条件でも、金閣寺は庭園だけで該当し、銀閣寺は建造物と庭園の両方で該当しています。
色の名前どおりかどうかと、国宝かどうかは、きれいに逆になっています。名前どおり金色の金閣に国宝の指定は無く、名前と違って黒い銀閣が国宝。
比べるときは冒頭の表の「外装」と「現存する建物が建った年」の2行だけ見れば足ります。国宝を分けたのは、建てた当時の建物が残っているかどうかでした。
銀閣寺・慈照寺・観音殿の呼び方
寺の説明では、正式名称は東山慈照寺(じしょうじ)で、臨済宗相国寺派の相国寺の塔頭寺院(本山に属する小寺院)の一つです。義政の死後、院号の慈照院殿にちなんで慈照院と称し、翌年に慈照寺と改名したとあります。
銀閣は観音殿(かんのんでん)の通称で、一層が心空殿(しんくうでん)、二層が潮音閣(ちょうおんかく)。東求堂(とうぐどう)は本来は阿弥陀如来を祀る持仏堂でした。
| 通称 | 正式名 | 建物の名 |
|---|---|---|
| 銀閣寺 | 慈照寺(じしょうじ)。東山慈照寺とも | 銀閣=観音殿(かんのんでん。一層: 心空殿(しんくうでん)、二層: 潮音閣(ちょうおんかく))、東求堂(とうぐどう) |
| 金閣寺 | 鹿苑寺(ろくおんじ) | 金閣=舎利殿 |
庭の銀沙灘(ぎんしゃだん)と向月台(こうげつだい)は、寺が近世以後の発想と説明している砂盛りです。銀閣寺で「銀」の字が付くものは、建物も砂盛りも江戸時代以降に付いた名前や意匠です。この一点を押さえておけば、境内で「銀」を探すより、黒漆の楼閣と池の配置を見るほうに時間を使えます。
