東大寺の大仏を作った人|再建した人と部位の時代・大きさ

奈良の大仏(東大寺)を作った人は、1人ではありません。

東大寺の説明では、743年に詔を出した聖武天皇が願主で、行基が民衆の協力を集めました。造像と鋳造の中心は大仏師の国公麻呂と大鋳師の真国らとみられ、752年の開眼ではインド僧の菩提僊那が導師を務めています。

今の大仏は、2度の兵火のあとに鎌倉時代の重源と江戸時代の公慶が直した部分を重ねた姿で、顔と頭部は江戸時代のものです。大きさは、寺の案内で像高14.98m。

項目内容出典
作品名奈良の大仏。正式名は銅造盧舎那仏坐像(どうぞうるしゃなぶつざぞう)文化遺産オンライン
所蔵・場所東大寺の大仏殿(金堂)に安置。常に見れる東大寺
公開時期拝観時間内は毎日。4月〜10月7:30〜17:30、11月〜3月8:00〜17:00(2026年10月時点)東大寺(拝観案内)
作った人(発願・勧進・開眼ほか)願主は聖武天皇、勧進(かんじん。寄付を募ること)は行基、開眼導師は菩提僊那、初代別当は良弁東大寺
作った人(造像・鋳造)造像の指揮は国公麻呂、鋳造の中心は真国・高市真麿・柿本男玉(いずれも寺の見方)東大寺
直した人鎌倉時代の重源(鋳物師は宋の陳和卿)、戦国時代の山田道安、江戸時代の公慶東大寺
今の顔と頭部江戸時代に造り直したもの東大寺(よくある質問)
時代奈良〜江戸文化遺産オンライン
大きさ像高14.98m、顔長5.33m、台座高3.05m東大寺(大仏殿)
国宝の指定1958年(重要文化財の指定は1897年)文化遺産オンライン

奈良時代に大仏を作った人(聖武天皇・行基・国公麻呂)

大仏の始まりは、743年に聖武天皇が紫香楽宮で出した盧舎那大仏造顕の詔でした。寺の年表では、745年に都が平城京へ戻ってから、東大寺の前身にあたる金鍾山寺の寺域で造立が再開されたとあります。なぜ約15mもの大きさにしたのかは、東大寺の大仏が大きい理由にまとめました。

「作った人」を1人だけ挙げるなら、願主の聖武天皇になります。ただ、検索する人が知りたいのは、たいてい実際に像を形にした人のほうでしょう。

費用と人手を集めたのは行基です。寺は、勧進に当たって民衆の力を結集した人物として紹介しています。奈良市観光協会によると、造立にはのべ260万人が協力したそうです。

像そのものを造ったのは、大仏師の国公麻呂です。寺のよくある質問では、国公麻呂は大仏の造像と大仏殿建築の総指揮を執ったのではないかと考えられる、と説明しています。「国中連公麻呂」と書かれることもある人物ですが、寺の表記は「国公麻呂」です。

銅を溶かして流し込む鋳造で中心になったのは、大鋳師の真国と高市真麿、鋳師の柿本男玉だというのが寺の見方です。寺の年表によれば、3年かけて8度の鋳継ぎを重ね、仏身の鋳造が終わったのは749年10月。よくある質問はその日を10月24日とし、金を塗る鍍金は752年3月14日に始まったと書いています。

752年4月の開眼供養会で導師を務めたのは、インドの僧の菩提僊那です。鍍金を始めてからまだ間もない時期の開眼でした。造立を寺の側から支えた初代別当として、寺は良弁の名も挙げています。

手を動かした人を一言で答えるなら、寺が総指揮者とみる国公麻呂、と覚えておくのが一番実用的です。聖武天皇は「作らせた人」、行基は「集めた人」、菩提僊那は「開眼した人」と分けておけば、名前を取り違えずに済みます。

焼けた大仏を直した人(重源・陳和卿・山田道安・公慶)

寺の年表で最初に出てくる損傷は855年の大地震で、頭部が落ちて修復されたとあります。ただ、今の姿を決めたのはそのあと2度の兵火でした。

1180年、平重衡の兵火で東大寺は伽藍の大半を失います。翌1181年、61歳で勧進職に任じられたのが重源でした。寺の説明では、重源は宋の鋳物師陳和卿の協力を得て頭部や左手などを補鋳(足りない部分を鋳造して補うこと)し、1185年に開眼供養を営みました。大仏殿の落慶は1195年で、翌1196年には、大仏殿の両脇侍と四天王がわずか半年で造られたと伝わっている、と寺は書いています。

1567年、三好・松永の兵火で大仏殿がふたたび焼けました。寺によると、このとき大仏は山田道安によって補修され、仮屋も建てられたものの、仮屋はやがて大風で倒れ、大仏は100年近く風雨にさらされたそうです。

その姿を見て大仏殿の再建を志したのが公慶です。寺の説明では、1684年に江戸幕府へ大仏殿の修造を願い出て許され、1686年から鋳造に着手して仏頭と蓮弁18枚を補鋳し、1692年に開眼供養を迎えました。大仏殿の落慶は1709年。このとき大仏殿は、天平・鎌倉の規模から東西の幅をおよそ6割に縮めて建て直されました。

近代以降も、寺の年表には1906〜1912年の解体修理と1973〜1980年の大修理が載っています。

大仏を「作った」と言える人は、奈良・鎌倉・江戸の少なくとも3世代にわたります。重源は鋳造の技術を宋の陳和卿に頼り、公慶は幕府の許しを得て再建を進めました。2人とも、寄付と人を集めて事業を動かした点で、奈良時代の行基に近い役回りだったと読めます。

今の大仏はどの部分がいつの時代か

今の大仏は、作られた時代の違う部分がひとつの像に同居しています。寺と文化庁、奈良市観光協会の説明を時代順に表にしました。

時代年人と役割手が入った部分
奈良743年詔、749年仏身鋳造、752年開眼聖武天皇・行基・国公麻呂・真国ら・菩提僊那創建
平安855年記録に名なし地震で落ちた頭部を修復
鎌倉1181年勧進職、1185年開眼供養重源・陳和卿頭部や左手などを補鋳
戦国1567年の兵火のあと山田道安補修と仮屋
江戸1686年鋳造着手、1692年開眼供養公慶仏頭と蓮弁18枚を補鋳。今の顔と頭部はこのときのもの

寺のよくある質問ははっきりと、今の顔と頭部は江戸時代に再建されたときに新しく造り直されたもの、と答えています。鎌倉時代に陳和卿が補鋳した頭部も、江戸時代にもう一度造り直されたことになります。

文化庁の文化遺産オンラインは、この像の時代を「奈良~江戸」とし、解説も奈良・江戸時代の作品という一文だけ。奈良市観光協会は一歩踏み込んで、奈良・鎌倉・室町・江戸の各時代の合作とも言える、と書いています。どちらも、1体の中に複数の時代が混ざっているという点で一致しています。

頭の螺髪(らほつ。丸く巻いた髪の粒)の数は、寺のよくある質問では、奈良時代の文献にある966個と、東京大学生産技術研究所の計測から推定した492個の2つが紹介されています。966個は創建当初の頭の話で、今の頭には当てはまりません。

寺の説明で、後の時代に補鋳した部分として名前が挙がるのは頭部・左手・蓮弁18枚までです。今も奈良時代のまま残る部分がどこか、胴体がいつの時代のものかについて、寺は説明を載せていません。顔は江戸、と確実に言える部分から押さえておくのが安全です。

1897年の重要文化財の指定と1958年の国宝の指定がどういう関係にあるのかは、国宝と重要文化財の違いで説明しています。

奈良の大仏の大きさ(高さ・顔・手・台座)

奈良市観光協会は、部位ごとの寸法をcm単位で載せています。主なものを抜き出すと次のとおりです。

部位大きさ(奈良市観光協会)東大寺の数字(大仏殿のページ・よくある質問)
座高・像高1,498cm14.98m
顔の長さ413cm5.33m
顔の幅320cmなし
目の長さ102cm1.02m
耳の長さ254cm2.54m
鼻の高さ50cm0.50m
口の長さ133cmなし
手のひらの長さ148cm左手の実測で約1.8m(手首の境から中指の付け根まで)
中指の長さ108cm左手の実測で約1.5m(湾曲に沿って計測)
左足の長さ374cmなし
銅座の高さ304cm台座高3.05m
石座の高さ252〜258cmなし

像高・目・耳・鼻は、寺と観光協会で数字がそろっています。ずれているのは顔の長さで、寺は5.33m、観光協会は413cmと、1m以上の差があります。どこからどこまでを顔と数えるかの違いと考えられますが、どちらの資料も測り方は書いていません。台座も、寺の台座高3.05mと観光協会の銅座304cmで1cm違います。

手のひらと中指も資料で数字が違い、寺のよくある質問は左手の実測値として、手首の境から中指の付け根まで約1.8m、中指は湾曲に沿って約1.5mと載せています。測る位置と測り方で数字が変わる例です。

寺のよくある質問は、奈良時代の記録『東大寺要録』にある高さの記述も紹介しています。螺髪1個は直径約22cm、高さ約21cm、重さ約1,200gだそうです。

数字を1つだけ覚えるなら、像高の約15mで十分です。顔の長さを人に伝えたり引用したりするときは、どの資料の数字かを添えておくと食い違いで困りません。

奈良の大仏はどこで見れるか

奈良の大仏は、東大寺の大仏殿に常に安置されています。寺の拝観案内では、大仏殿は4月〜10月が7:30〜17:30、11月〜3月が8:00〜17:00で、特別な行事や緊急事態がない限り無休です(2026年10月時点)。期間限定の公開を待つ必要はなく、拝観時間内ならいつでも見れる国宝の仏像です。

大仏殿の入堂料は現金のみの対応で、東大寺ミュージアムとのセット券もあります(2026年10月時点)。東大寺ミュージアムの開館は9:30からです(2026年10月時点)。両方を回るなら大仏殿を先にすると、朝の時間を使えます。

大仏殿そのものも江戸時代の公慶による再建で、寺の案内では東西57.012m、南北50.480m、高さ48.742mです。寺によると、桁行(東西の柱間の数)は天平・鎌倉の11間から江戸の再建で7間に減りました。創建時の大仏殿は、今よりずっと横に長い建物だったことになります。

寺が江戸時代に造り直したとはっきり書いている顔と、公慶が補鋳したと書く台座の蓮弁18枚が、確実に江戸の仕事と言える部分です。

大仏のような仏像を如来・菩薩・明王・天に分けたときの見分け方は如来と菩薩の違いにまとめました。

参考