東本願寺と西本願寺の違い|分裂の理由・世界遺産と国宝はどっちに

東本願寺と西本願寺は、どちらも親鸞を宗祖としながら、真宗大谷派と浄土真宗本願寺派という別の宗派の本山です。分かれるきっかけを作ったのは石山合戦での顕如と教如の対立で、1602年に徳川家康が教如へ京都・烏丸の寺地を寄進したところから東が始まりました。

世界遺産「古都京都の文化財」に入っているのは西本願寺だけ。京都市は構成資産を選ぶ条件に、国内で最高ランクとされる国宝(建造物)と特別名勝(庭園)を挙げています。推薦された1993年の時点で、東本願寺はそのどちらも持っていませんでした。

国宝そのものは、どちらの寺も持っています。建造物の国宝があるのは西だけ。書物の国宝は両方にあり、東は親鸞の自筆と伝わる『教行信証』坂東本を伝えています。

観点西本願寺(お西さん)東本願寺(お東さん)
正式名龍谷山本願寺真宗本廟
宗派浄土真宗本願寺派の本山真宗大谷派の本山
今の場所に移った年1591年、豊臣秀吉の寺地寄進1602年、徳川家康の寺地寄進
中心になった人顕如・准如教如
世界遺産古都京都の文化財の構成資産(1994年登録、登録基準 (ii)(iv))登録なし
国宝の建造物御影堂・阿弥陀堂・唐門・書院・黒書院および伝廊・北能舞台・飛雲閣なし
重要文化財の建造物総門・御影堂門・阿弥陀堂門・経蔵・太鼓楼・手水舎など御影堂・阿弥陀堂・御影堂門・阿弥陀堂門・鐘楼・手水屋形(2019年指定)
国宝の書物三十六人家集・観無量寿経註(親鸞筆は観無量寿経註)教行信証(坂東本、親鸞筆)
庭園大書院庭園(虎渓の庭、特別名勝)・滴翠園(名勝)渉成園(名勝、1936年指定)
今の両堂が建った年御影堂1636年上棟、阿弥陀堂1760年両堂とも1895年再建
見どころの軸国宝の建造物と特別名勝の庭園我が国最大級の御影堂と御影堂門
JR京都駅から徒歩約15分徒歩7分

東本願寺と西本願寺の宗派と成り立ちの違い

寺の名前より先に覚えてほしいのは、宗派の名前のほうです。東と西という呼び分けは位置関係からきた通称だとされていて、正式名の龍谷山本願寺にも真宗本廟にも、宗派名にも出てきません。

京都では「お西さん」「お東さん」と呼ばれていて、どちらの公式サイトもその通称を自分で使っています。

出発点は同じ1272年の廟堂です。文化庁のデータベースは、親鸞の末娘の覚信尼が東山大谷の地に親鸞の遺骨を改葬して廟堂を建てたのが西本願寺の始まりだと書いています。東本願寺のほうは、門弟たちが親鸞の遺骨を大谷から吉水の北へ移し、廟堂を建てて影像を安置したことに起源すると説明していて、その年を1272年としています。

書きぶりは違っても、両方が始まりに置いているのはこの同じ廟堂です。途中で枝が二つに分かれたと考えると分かりやすいです。

東本願寺が御影堂と阿弥陀堂を並べる両堂形式をとるのも、この成り立ちからきています。真宗大谷派は、親鸞の御真影を安置する廟堂が今の御影堂、本尊を安置する本堂が今の阿弥陀堂にあたるのだそうです。

焼香の回数とお参りの作法の違い

宗派が違うので、法事や葬儀での作法も分かれます。浄土真宗本願寺派の公式サイトによれば、香はおしいただかず、焼香の回数は一回。真宗大谷派の真宗会館は、焼香は二回で、つまんだ右手を額に当てる必要はないと説明しています。

どちらが正しいという話ではありません。自分が属する宗派の案内に従えば足ります。

本願寺が東西に分かれた理由

きっかけは、織田信長との11年におよぶ石山戦争です。西本願寺の年表によれば、第11代の顕如は1580年に信長と和議を結び、大坂石山本願寺を退去しました。東本願寺のほうは、このとき長男の教如が籠城したために父と意見が対立して義絶されたと書いています。義絶が解かれたのは1582年。

顕如は紀伊の鷺森、和泉の貝塚を経て大坂天満へ移り、1591年、秀吉の京都市街経営計画にもとづいて六条堀川の現在地へ寺基を移します。阿弥陀堂と御影堂が完成した1592年、顕如は50歳で亡くなりました。

いったんは教如が跡を継いだものの、三男の准如にあてた譲状があったため、教如は隠退して裏方と呼ばれる立場になります。西本願寺は、この背景に退去派と籠城派の対立があったとはっきり書いています。

その後、教如は徳川家康に接近しました。1602年に家康から烏丸七条の寺地を寄進され、翌年そこに御堂を建てました。西本願寺の公式サイトは、これが大谷派本願寺の起源で、この時から本願寺が西と東に分立したと述べています。

東本願寺側の説明は、順番が少し違います。家康から京都烏丸六条・七条間の地を寄進されたのが1602年、上野国妙安寺から御真影を迎えて阿弥陀堂を建立したのが1603年、御影堂を建立して新たな本願寺を創立したのが1604年。だから第12代の教如を「東本願寺創立の上人」と呼ぶのだと説明しています。

東西の分裂が始まった年を一つ選ぶなら、御堂が建った年より1602年を取るのがいいと思います。土地が動いた年が、そのまま二つの本山が並び立つ起点になっているからです。

世界遺産に入っているのは西本願寺だけ

1994年12月に登録された「古都京都の文化財」の構成資産は17件。文化庁が公開している一覧には、上賀茂神社や清水寺、二条城などと並んで「本願寺」があります。この本願寺が西本願寺で、東本願寺の名前はどこにもありません。日本政府が推薦したのは1993年のことでした。

よく見かけるのは「東本願寺は何度も焼けて古い建物が残っていないから」という説明です。焼けたのは事実。ただ、京都市が挙げた選定の条件に建物の年代は入っていません。

構成資産に選ばれる条件は国宝の建造物と特別名勝の庭園

京都市は、17件が選ばれた基準をはっきり書いています。世界遺産が不動産に限られるため建造物と庭園を対象とし、国内で最高ランクとされる国宝(建造物)と特別名勝(庭園)を有すること。加えて、敷地全域が史跡等に指定されているなど保護の状況に優れていること。これを基本に選び出した、という説明です。

西本願寺はこの条件を楽に満たしていました。京都府の紹介によれば、境内が史跡で、御影堂と阿弥陀堂、北能舞台、唐門、書院、黒書院、飛雲閣が国宝、大書院庭園(虎渓の庭)が特別名勝、滴翠園が名勝です。

国宝と特別名勝の両方がそろっていなくてもよさそうだと分かるのが、金閣寺の例です。今の金閣は再建で国宝ではありません。それでも構成資産に入っていて、庭園のほうが特別史跡かつ特別名勝。文化庁のデータベースでは1925年に史跡と名勝、1956年7月19日に特別指定を受けています。

金閣が国宝でないまま世界遺産に入っている事情は、金閣寺はなぜ国宝じゃないのかのほうに書きました。

東本願寺の建物が重要文化財になるまで

東本願寺の伽藍は、江戸時代に四度焼けています。真宗大谷派の年表では、1788年の京都大火、1823年の境内からの出火、1858年の京都大火で両堂が焼失し、1864年の禁門の変では両堂以下の諸堂が焼けました。今の両堂が落慶したのは1895年です。

その両堂と門が国の重要文化財に指定されたのは2019年9月30日。世界遺産の登録から25年後でした。対象は御影堂・阿弥陀堂・御影堂門・阿弥陀堂門・鐘楼・手水屋形の6棟です。さらに2023年6月23日には、文化審議会が大寝殿や白書院などの諸殿14棟と内事3棟を指定するよう答申しました。寺はこれで重要文化財が23棟になる見通しだと知らせています。

庭園の渉成園は飛地境内にあり、1936年に国の名勝に指定されました。ただし京都市が挙げた条件は特別名勝で、名勝の一段上です。

国宝の建造物も特別名勝の庭園も、1993年の推薦にはまだ間に合っていません。京都市の条件と照らすと、東本願寺が17件に入らなかった事情はここにあると読めます。

東本願寺の指定が進んだのは、世界遺産の推薦より後でした。順番の問題だと読むほうが正確だと思います。

国宝はどっちにあるか

西本願寺の国宝は建造物です。ここで面白いのは指定の順番。文化庁の記録では、御影堂と阿弥陀堂が国宝になったのは2014年9月18日で、重要文化財の指定は1913年4月14日です。100年を挟んで格上げされた計算になります。国宝と重要文化財がどういう関係にあるかは、別の記事で整理しました。

世界遺産に登録された1994年でいえば、両堂はまだ重要文化財でした。当時すでに国宝だったのは唐門や飛雲閣のほう。境内で真っ先に目に入る巨大な両堂が、登録の頃は国宝ではなかったわけです。この順番はあまり知られていないと思います。

東本願寺に建造物の国宝はありません。かわりに書物の国宝を伝えています。親鸞の主著『顕浄土真実教行証文類』、通称『教行信証』の現存唯一の自筆本とされる坂東本です。京都国立博物館が2023年に開いた親鸞の特別展では、国宝の教行信証(坂東本)が東本願寺の所蔵として出品されました。同じ展覧会には、西本願寺の国宝である三十六人家集や観無量寿経註も出品されていました。

国宝の有無で優劣を決めようとすると読み違えます。建造物と書跡・典籍は別の枠で指定され、枠ごとに件数も公開のされ方も違うからです。西は境内に立てば国宝の建物を見れます。東の坂東本を見る機会は、2023年の特別展のような展示に限られるようです。

建物と庭園の見どころの違い

規模で比べると、順位がひっくり返ります。

文化庁の記録では、建物の正面の長さにあたる桁行が、西本願寺の御影堂で62.1m、東本願寺の御影堂で63.6m。東本願寺の御影堂について、文化庁は我が国最大の平面規模をもつ雄壮な伝統木造建築だと書いています。御影堂門も我が国最大級の二重門という評価です。

寸法は資料によって測り方が違うので、数字は出どころとセットで見てください。真宗大谷派は御影堂を正面76m・側面58m・高さ38mの世界最大級の木造建築物と紹介していて、文化庁の桁行63.6m・梁間45.5mとは数え方が別です。

西本願寺の両堂は年代で勝ちます。1636年に上棟した御影堂は外陣が441畳あり、文化庁は小さな道場から始まった真宗の本堂が到達した頂点の建築だと評しています。1760年に建て替えられた阿弥陀堂は桁行45.2m・梁間42.1mで、真宗寺院の阿弥陀堂および本堂としては我が国最大級の規模だという説明です。

見比べるなら、堂の大きさより門と庭を見るほうが差が出ます。

西の唐門は檜皮葺の四脚門です。彫刻に見入って日が暮れるので、日暮らし門とも呼ばれます。東の御影堂門は1911年に再建された二重門。どちらも両堂形式の寺ですが、門の見せ場は西が桃山の装飾、東が近代の高さです。

庭は西本願寺の虎渓の庭が特別名勝の枯山水で、御影堂の屋根を廬山に見立てた借景を持ちます。滴翠園の池に建つ三層の飛雲閣は、金閣・銀閣と並んで京都三名閣と呼ばれる建物ですが、公式サイトは通常非公開だとしています(2026年9月時点)。東本願寺の渉成園は境内から少し離れた飛地にあり、文人趣味あふれる仏寺庭園として名勝に指定されました。

どっちに行けばよいか

先に東、あとから西の順をすすめます。駅に近い東本願寺で1895年の両堂を見てから歩いて西本願寺に入ると、同じ両堂形式を年代違いで見比べられるからです。時間が30分しかないなら東だけ、国宝の建物を見たいなら西を選べば迷いません。

東本願寺はJR京都駅から徒歩7分。真宗大谷派の案内では、開門と閉門は3月から10月が5:50〜17:30、11月から2月が6:20〜16:30です(2026年9月時点)。西本願寺はJR京都駅から徒歩約15分と京都府が案内しています。本願寺が公式サイトに載せている一日の予定では、開門5:30・閉門17:00でした(2026年9月時点)。

西本願寺で国宝を見るなら、飛雲閣が通常非公開である点を計算に入れてください。国宝を全部見るつもりで計画を立てるのはやめましょう。狙いは御影堂と阿弥陀堂、それに唐門に絞るのが無理のない組み方です。

両寺は歩いて行き来できる距離にあります。名前の似た二つを京都で比べる見方は、金閣寺と銀閣寺の違いでもそのまま使えます。建物が国宝かどうか、庭が特別名勝かどうか。この二つを見るだけで、京都の寺の並びはずいぶん見通しがよくなります。

参考